年回法要

なぜ年回法要をするのか

 私たちは大切な人の「死」をきっかけとして、お葬式から始まり、四十九日納骨法要を経て、年回法要をお勤めします。
なぜ、私たちはこのような法事を行うのでしょうか。大切な故人の冥福を祈るとともに、その方との対話を通じて、自身を内観(内省)し、これからの人生を心身ともに豊かで穏やかに生きていくためです。法事は、内観(内省)のための貴重な時間を私たちに提供してくれるのです。
 内観(内省)とは一体何でしょうか。それは、日々の生活に忙殺されるあまり、ないがしろにしてしまいがちな物事の本質や大切なことを再確認することです。
なぜ「再確認」と言うのでしょうか。それは、本質や大切なことには、生きていれば自然と触れていくにもかかわらず、それに気づかなかったり、気づいても忘れてしまったり、覚えていても実践することができなかったりするからです。それらを思い出し、実践するために、大切な故人様の前で内観(内省)するのです。
 なぜ、故人様と向き合って内観(内省)をするのでしょうか。それは、故人様の生き様の中に、良くも悪くも物事の本質や大切なことが詰まっているからです。
 世の中にはたくさんの哲人たちがいて、本や講演会などを通じて私たちに多くのことを教えてくれます。たとえば、偉人の講演会に足を運べば、尊い知識のシャワーを浴びることができ、それによって私たちは教養がついたり、頭が良くなった…気がします。
 しかし、ひとたび会場を出て、学んだことを自分の言葉で表現しようとすると、なかなかうまくいかないことに気づかされます。まして、それを実践することは至難の業です(本や講演会の価値を否定するものではありませんので、悪しからず)。
 故人様と向き合うとどうなるか。当時は理解できなかった故人様の行動や言動も、今であれば理解できることがたくさんあることに気づかされます。反面教師的なものであっても構いません。活かすのは自分次第だからです。活かそうとしたら、同じ失敗をしてしまったとしても構いません。簡単そうに見えたことが、実は容易でなかったと気づくのです。先人たちの苦労を知り、心からの尊敬の念が湧くからです。
 このようにして向き合った、本質的なことまたは大切なことは、自分にとって最も身近であるという点で、いかなる哲人の言葉よりも腹落ちする可能性が高いのです。
 内観(内省)とは、先祖の小言を聞くのに近いかもしれません。小言は腹が立つものです。当たり前だから、正しいから、言われた本人ができていないから。本質的なこと、大切なことは、小言のように素朴で当たり前のことであるのに、実践するのが難しいのです。
 私たちは、自ら内観(内省)して一生懸命考えた“先祖の小言”のような本質的なこと、大切なことを拠り所として、毎日を一生懸命に生きるだけです。
 そして、最期は死にます。死んだらどうなるか。極楽浄土に往きます。極楽浄土とは何か。それは経典に書いてあります。
 私たちにとって、経典に何が書いてあるかは、あまり大きな問題ではありません。私たちが経典を読んだところで、チンプンカンプンで理解できないからです。
 私たちは経典に何が書いてあるかを知ることができます。しかし、理解することはとてつもなく難しいのです。私は経典に書かれていることの一部を知っていますが、理解しているかどうかは甚だ怪しいのです。
 ここで言う「知っていることと理解していること」の違いは、実践できるかどうかの違いです。実践できないことは、理解していると言うに値しません。
 経典の中で唯一、理解しておかなければならないことは何か。西の遥か向こうには極楽浄土がある。そこは素晴らしいところ。先人たちはそこで元気に過ごしている。私たちのことを見守っている。私たちも、死んだらそこへ往くことができる。それだけなのです。
 突き詰めると、私たちは生まれて一生懸命生き、死んで極楽浄土に往くだけなのです。
 その途中経過である、一生懸命に生きる中で右往左往しているのが、今現在の私たちです。そのような状態を少しでも緩和させ、素敵な人生を歩むために内観(内省)をするのです。
 法事の際には、故人様の冥福をお祈りすること、内観(内省)したことを拠り所としてこれからの人生を一生懸命に生きること、最期は極楽浄土にお迎えしてもらうこと――この3つのために念仏を称えます。
 なぜ、念仏を称えるのか。それは、極楽浄土に往く切符だからです。どこへ行くにも切符がなければいけません。極楽浄土に往く切符は何か。それは念仏です。だから念仏を称えるのです。
 なぜ、繰り返し念仏を称えるのか。それは、切符が何であったか忘れないようにするためです。極楽浄土に往く切符は何であったか。それは念仏です。だから念仏を称えるのです。
 法事をお勤めになりたい方は、1か月前までを目安に電話かメール、問合せフォームからご連絡くださいますようお願いいたします。

法事のお布施について

 布施には大きく分けて3つあります。ひとつは財施。執着から離れることを目的とした行為です。ふたつは法施。正光寺では内観と念仏によって、ご先祖さまや仏さまと向き合い、自身を内観してこれからの人生を穏やかに生きていくこと、そして最期は極楽浄土に往生することを目的とします。みっつは無畏施。不安や怖れを取り除くことで、正光寺ではこれもまた内観と念仏をもって行います。

その上で、布施とは「ありがとう」という感謝の気持ちです。布施をした人が「ありがとう」と言えることが布施なのです。 布施を受けた人は、布施そのものではなく、それによって社会に貢献させてもらえることに対して「ありがとう」と言えることが布施なのです。だから、布施はもらうものではなく、預かるものなのです。

布施はそれ以上でもなければそれ以下でもありません。しかし、不完全な人間である私たちは、布施が社会に役に立っている事を少しは実感したいと欲してしまいます。ある程度は仕方のないことです。度を過ぎない限りは良いのではないかと思います。
自身の布施が社会の役に立っていることを感じることは必ずしも悪いことではありません。「布施を有効に活用してくれてありがとう」と心から思えるからです。

 正光寺では、お預かりした布施を、内観と念仏を行うための環境整備および、内観と念仏へと向かうための付帯活動に使用します。その活動によって、正光寺から布施を享受した人たちは、その布施を社会へ循環させていくのです。

●法事の財施(目安)●

檀 家:80,000円(代々、先祖とお寺を守っておられる方々です)
浄 苑:70,000円(管理費を多く収めてくださっています)
永代墓:50,000円(墓地に広さを求めない方々です)
納骨堂:60,000円(墓地を求めない方々です)
一 般:50,000円(埋葬施設がない方々です)
※院号は必ずしもこのかぎりではありません。他にお飾り物などをご用意されています。

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