称号十念
正光寺の写経会は書道教室ではありません。したがって、字をうまく書くこと自体を目的としていません。写経を通じて、日々の生活を穏やかで豊かなものにするために必要な「ものごとの本質」を再確認する内観(内省)を目的としており、さらに念仏を称えることで、最期に敬愛すべき先人たちと同じ極楽浄土へお迎えいただくことを目指しています。
「心機一転」という言葉が最もしっくりくる行事の一つは、お正月ではないでしょうか。毎年必ず巡ってくるお正月は、いつの間にか垢まみれになった私たちの心をすっきりとさせてくれる節目でもあります。天気にも恵まれ、すがすがしい日曜日の昼間に、新年最初の写経会で内観(内省)を行い、念仏を称えることができました。
前回の写経会では、キサーゴータミーの物語を通じて「相手に応じた話し方の大切さ」を再確認しました。結論は同じでも、そこへ導く説明の仕方次第で、聞き手の納得度は大きく変わります。しかも、一切において唯一の正解がない中で、正解でも不正解でもない結論に共感してもらうためには、「大義」が大事であることを改めて学びました。

さて、2月の写経会では「顧愛」ということを取り上げ、大切なことをもう一度見つめ直してみたいと思います。
お釈迦さまの教えを集めた『ウダーナヴァルガ』というお経には、「ことば」にまつわる章があります。その中に、次のような教えがあります。
自分を苦しめず、また他人を害しないようなことばのみを語れ。
これこそ実に善く説かれたことばなのです。
私たちはお互いを知るため、さらにはあらゆるものを理解するために、「ことば」を欠かせません。一方で、便利なはずの「ことば」が原因となり、自分を傷つけ、他人を傷つけてしまうこともあります。「ことば」さえも苦悩の一つになり得るのです。
だからこそ「善いことば」を使おうと努める必要があります。とはいえ、自分が考える「善いことば」も、どうしても独善的になりがちです。私たちは「善」を意識した瞬間から、自分の価値観や判断基準を拠り所にしてしまい、主観を完全に排除できなくなるのです。
そもそも「あらゆる人にとっての絶対的な善」というものは理想概念のようなもので、日常の言葉のやり取りにそのまま当てはめることはできません。そう考えると、私たち一人ひとりの「これが善だ」という思い込みが、いかに不完全であるかが見えてきます。

では、お釈迦さまがおっしゃる「善く説かれたことば」を、私たちはどのように理解すればよいのでしょうか。
それは結局、「自分にも他人にも誠実であるかどうか」に尽きます。相手を傷つけないようにすることが、必ずしも相手のためになるとは限りません。善かれと思って言ったことがかえって逆効果を生み、その結果、自分も傷ついてしまうこともあるでしょう。しかし、だからといって相手を慮る努力を怠れば、円滑な人間関係を築くことはできません。
自他を苦しめ傷つけるわけでもなく
自他を苦しめ傷つけないわけでもなく
ただ誠実な言葉のみを語れ
相手を傷つけないようにすることを過度に意識しても、まったく意識しなくても、相手のためになるとは限りません。むしろ、意識した瞬間から、自分が思う「善悪」という主観的な物差しで言葉を判断し始め、かえって逆効果を生むこともあるのです。
だからこそ、私たちが大切にすべきなのは、ただただ誠実であり続けることです。誠実さとは、相手の立場や思いを正面から受けとめ、そこに自分勝手な評価を挟まずに寄り添う姿勢です。たとえ一時的にお互いが苦しみ傷つくことがあっても、最後にはより良い状態にいたると信じるからこそ、誠実であることをやめてはいけないのです。
お釈迦さまがおっしゃる「実に善く説かれたことば」とは、まさにそういうものだと考えています。

以上のことを踏まえながら、写経の願文には
「顧愛之語」
と書き、静かに内省しつつ、念仏をお称えいたしましょう。
南無阿弥陀仏