急逝されたそうです。
どのような経緯であれ大切な人の死は悲しいという前提で、突然亡くなってしまうのは、中々その状況を受け入れられないものです。
亡くなってしまった人は、絶対に目の前には現れません。声を発することもない。それでも私たちのことを見守っていてくれる。絶対に。
なぜならば、私たちは視力以外の能力を以って大切な人の姿を観ることができるからです。聴力以外の能力を以って大切な人の声を聴くことができるからです。その拠り所となるのは記憶です。
私たちは、この見守っていてくれるという感覚を拠り所として、毎日一生懸命に生きていくだけです。
そして最期は同じように死にます。絶対に。
死んだら何処に往くか。極楽浄土です。極楽浄土という所はどういうところか。それは経典に書いてある。しかし、経典に書いてある、ということも私たちにはもはや難儀な事です。読んだところでチンプンカンプンさっぱり分からないからです。
誤解のないように付言。読めば内容を知ることはできます。しかし理解することは至難の業です。その差は実践できるかどうかです。
唯一理解しておくべきことは、西のはるか向こうには極楽浄土がある。そこは素晴らしいところだ。大切な人はこれからそこで元気にお過ごしになる。私たちも死んだらそこに往くことができる。それだけです。
突き詰めると人間は、「生まれて、生きて、死ぬ」それだけです。その途中にある「生きる」というところで右往左往しているのが私たちの今この瞬間です。それを少しでも緩和させるために、葬式という席で大切な人としっかりと向き合い、内観(内省)をしてこれからの人生をしっかりと生きていけるよう、大切なことの再確認と決意表明、そして念仏を称えるのです。
つまり、葬式は生きる人のためのものなのです。
ご遺族が3人参列した小さな儀式でそのことをしっかりと心に刻み込んで念仏を称え、これからの人生に対する決意表明をいたしました。
