称号十念
正光寺の写経会は書道教室ではありません。したがって、字をうまく書くこと自体を目的としていません。写経を通じて、日々の生活を穏やかで豊かなものにするために必要な「ものごとの本質」を再確認する内観(内省)を目的としており、さらに念仏を称えることで、最期に敬愛すべき先人たちと同じ極楽浄土へお迎えいただくことを目指しています。
今年の冬は冬らしい寒さであるように感じます。前回の写経会は曇り空で小雨も時折ぱらついていました。草木もまだまだ花を咲かす準備中のようで、つぼみをしっかりと閉じて寒さをじっとこらえています。あらゆる天候を楽しむ余裕をもって、本日も写経会で内観(内省)を行い、念仏を称えることができました。
前回の写経会では、お釈迦さまの教えを集めた『ウダーナヴァルガ』というお経から、語るべき言葉について再確認しました。言葉選びに注力することは大切ですが、最も大切なことは、ことばを語るときにどこまで誠実でいられるか、難儀な事でありますが再確認して一カ月穏やかに過ごしていくことを決意しました。

さて、3月の写経会では引き続き「ことば」に関することを取り上げ、大切なことをもう一度見つめ直してみたいと思います。
『入楞伽経』というお経に、次のような説示があります。
癡なるものは、月を指すを見るに、指を觀て月を觀ざるが如く、
名字に計著する者は、我が眞實を見ず。(大正蔵巻10、P671)
愚かな者は、月を見るのに月を指す指をみて月を見ないように、
文字や言葉にとらわれる者は、仏が示す真理を知らない。
お釈迦様がセイロン島を訪問した際、ラーヴァナという人に対して、人間の在り様、私たちが認識している事どもについて説き示したのが『入楞伽経』です。その一説に文字や言葉にとらわれることへの戒めが説かれているのです。
言わずと知れたことですが、真理を言語で完璧に表現することはできません。一方で、私たちが真理へ至る過程で言語はとても重要な手段であります。ここでは手段としての言語に拘り過ぎつ事への警鐘とがなされていると理解すべきところです。
前回再確認した通り、私たちはお互いを知るため、さらにはあらゆるものを理解するためには、言語(ここでは文字と言葉)がとても重要です。しかし、言語が厳密に対象を表現することができない事、私たちがひとつひとつの言語に対して他者と全く同じ解釈をしていない事により、言語もまた不完全であります。
言語で説明を尽くして相手が理解したと言っても、その理解が本当に自分と全く同じ理解をしたのか俄かに確かめることができません。
これは言語に限った話ではありません。視覚で認識している風景、聴覚で認識している音など、あらゆる認識対象を他者と同じように認識をしているとは限らないのです。
私たちはあらゆる点で本質的な事、大切な事を理解することが困難な存在、凡夫であります。それでも理解する努力を惜しまず、理解できた喜びと理解できない苦しみ、分かち合えた喜びと分かち合えない苦しみを繰り返しながら毎日一生懸命に生きています。
伝わらないからこそ
伝える努力を惜しんではならない
お釈迦様がお悟りになった時、その内容はとてもではないが民衆に理解させるのは困難であると思い、説き示すことを控えていました。そんな様子をみた仏教の守護神である梵天は、お釈迦さまにお悟りの内容を民衆へ説き示すことを請願し、それによってお釈迦さまは人々に説法を始めたのです。
お釈迦様でさえ、伝えることにご苦労されたのです。私たちが伝える努力をしないのは、お釈迦様の教えに背くというものです。

今月は、理解する努力、伝える努力を目指して、写経の願文には
「不立一切」
と書き、静かに内省しつつ、念仏をお称えいたしましょう。
南無阿弥陀仏