称号十念
正光寺の写経会は書道教室ではないので、字をうまく書くことを目的としていません。写経を通じて日々の生活を穏やかに豊かにするために必要なものごとの本質を再確認するための内観(内省)を目的としており、さらには念仏を称えることをもって最期に敬愛すべき先人たちと同じ極楽浄土へお迎え頂くことを目的としています。
年末最後の写経会は天気も良く、いよいよ冬がやってくる、新しい年を迎える、そんな気分にさせる過ごしやすい一日でした。一年を締めくくる思いで各々が心静かに内観(内省)に取り組むことができました。いつも通り、最後は皆で念仏を称えました。
前回の写経会では、勝ち負けという事の価値をはき違え、却って心の平穏を損なうことの愚かしさを沢庵禅師や『平家物語』の一節をもって再確認をしました。他者との比較による勝ち負けを超えたところに本当の「勝ち(価値)」があり、結果としてそれが自分を大きく成長させるために最も効果的であることを忘れてはならないのです。
さて。
新年最初の写経会では「方便」という事を取り上げて、大切な事の再確認をしていきましょう。
お釈迦様の弟子の一人にキサーゴータミーという大層貧しい家の女性がいました。貧しさゆえに家族は亡くなり、ついには生まれたばかりの赤ん坊まで亡くなってしまったのです。キサーゴータミーは悲嘆にくれ、赤子を生き返らせることができる薬を求めて町中を歩き回ります。
町の人たちは彼女の悲しみを理解しながらも、有るはずのない薬をわたすことができません。対応に苦慮した彼らは、キサーゴータミーにお釈迦様のもとへ薬を求めに行くよう勧めます。
お釈迦様は訪ねてきたキサーゴータミーに、今まで一度も死者を出したことがない家の人からケシの実をもらってくるよう伝えます。それがあれば娘を生き返らせることができるというのです。
キサーゴータミーがいくら家々を回ったところで、死者を出したことがない家などありません。そこでやっと「人は必ず死ぬ」という当たり前のことを思い出し、我に返るのです。
「人は必ず死ぬ」というのは本質であり当たり前のことです。今時点で冷静な私たちは、この物語を陳腐だと思う事でしょう。
しかし、ひとたび自分事として大切な人でしかもまだ生まれて間もない人が、戦争や自死などの特殊な環境や状態で亡くなった場合、これを当然の事として受け流すことができるか、はなはだ怪しいものです。
あらゆる本質的な事や大切な事は、当たり前のことで正しく、にも拘らず理解して実践するのがとても難しいことばかりです。
このような類の事は親の小言に似ているところがあります。親の小言は当たり前のことで正しく、言われた本人ができていない場合が多い。親は頭ごなしにそれを言うものだから子どもは反発するわけです。
どんなに正しいことも言い方が適切でないと相手に大切な事を再確認させて行動を改めさせることはできません。これはすべてに言える事です。
大義を立てるも 善巧をもって説かねば
事を成すこと 能わず
相手に応じて、状況に応じて、機を見て、適切な表現で伝える努力が私たちにはとても大切になります。お釈迦様のように巧みな方便をすることは叶いませんが、皆が仲良く共に助け合っていくことができるように、語るべきことをしっかりと語っていきたいものです。
以上のような決意をこめて、写経の願文には
「善巧方便」
と書いて心静かに内省し、念仏をお称えいたしましょう。
南無阿弥陀仏