称号十念
正光寺の写経会は書道教室ではないので、字をうまく書くことを目的としていません。写経を通じて
日々の生活を穏やかに豊かにするために必要なものごとの本質を再確認するための内観(内省)を目的と
しており、さらには念仏を称えることをもって最期に敬愛すべき先人たちと同じ極楽浄土へお迎え頂くこ
とを目的としています。
10月の写経会は久々にいつも通りの写経会となりました。回を重ねるごとに内観(内省)の手段とし
ての写経をすること、それを踏まえて次の写経会まで一生懸命生きるという繰り返しが楽しくなってきて
いるのではないかと察しています。今回も参加した方々と共に内観(内省)をして念仏を称えました。
当日は愚者の自覚をする事こそが賢者であるということの再確認をしました。私事ですが、改めて愚者
の自覚の難しさを痛感した一カ月となりました。
「知っているかどうか」と「理解しているかどうか」では雲泥の差があるという事です。その差とは「行
動できるかどうか」ということです。私は自分自身が写経会で話すこと、文章として書くことを知ってい
ます。しかし、そのほとんどを理解できていないのです。「愚者の自覚」という再確認はまた来年も是非行
いたいと思っています。
さて。
今月11月は「生死一如」について再確認しましょう。
国際化ということばを改めて出すまでもなく、多くの人たちの行動範囲はとても広くなりました。成人
して引き続き家に居られる人はまだ良い方で、就職して地方で1人暮らし、下手をすれば海外勤務です。
家族に限らず親戚、友人、みな様々なところに散らばって一生懸命生きています。地元にずっといること
ができる人というのは、昔から比べればとても少なくなりました。
そのような環境に置かれると、故郷へ盆暮れ彼岸に再会できれば良い方で、2年、3年、乃至5年、10年会えない事だってあります。その点、ご先祖様は盆暮れ彼岸に必ず帰ってきますので律儀なものです。
それでも私たちは、大切な家族、親戚、友人が遠くで元気に一生懸命過ごしている事、自分の事を気に
かけていてくれる事を一生懸命生きる拠り所としています。
同じように私たちは、大切な家族、親戚、友人が極楽浄土で元気に一生懸命過ごしている事、自分の事
を気にかけていてくれていると認識する自らの心の能力を一生懸命生きる拠り所としています。
両者の違いは、相手が感覚器官で認識できる状態にあるか否かの違いで、相手が己の感覚器官で認識で
きる範囲内にいない以上、いずれの場合も己の感覚器官以外で相手を認識していることは同じです。
大切な人たちがどのような状態で在ろうとも私たちはその存在を認識することができ、その人が元気で
いる事、自分を気にかけてくれている事を感じ取ることができ、一生懸命生きる拠り所とすることができ
るのです。
「生死一如」は対象を自己が認識する方法の違いを示したものであり、それぞれの認識方法を手段とし
て、私たちは毎日を一生懸命に生きるだけです。
改めて「生死一如」という認識方法を再確認して拠り所とし、前向きに行動し続けることを心掛けて一カ月間過ごそうではありませんか。そのことが、これからの人生をさらに少しずつ豊かなものにしていく
に違いありません。
以上のような決意をこめて、写経の願文には
「生死一如」
と書いて心静かに内省し、念仏をお称えいたしましょう。
南無阿弥陀仏