住職より~10月の正光寺写経会を終えて

称号十念

 正光寺の写経会は書道教室ではないので、字をうまく書くことを目的としていません。写経を通じて日々の生活を穏やかに豊かにするために必要なものごとの本質を再確認するための内観(内省)を目的としており、さらには念仏を称えることをもって最期に敬愛すべき先人たちと同じ極楽浄土へお迎え頂くことを目的としています。
 9月の写経会は生憎の荒天となってしまいましたが、それでも何人かの方が参加されました。雑談も多くなってしまいましたが、参加者とともに内観(内省)をして念仏を称えました。
 当日は「嘘」について再確認をしました。嘘をつくわけでもなく、嘘をつかないわけでもなく、一言一挙手一投足が誠実であるかどうかを大切にして一か月過ごすことを決意しました。

 さて。

 今月10月は「愚者と賢者」について再確認しましょう。
『ウダーナヴァルガ』(自説経・法句経)という原始経典の中に以下の言葉があります。

愚者が「私は愚かだ」と知れば賢者である

 善悪同様、賢愚は程度の問題であり相対的ですから、学業の成績が50点の人にとって70点の人は「賢」ですし、90点の人にとっては「愚」といことになります。

 また、何をもって賢愚とするのかは対象となる行為や考え方ではなく、それを認識する者に帰属しますから、治安の悪い近道と治安の良い遠回りの道の選択者がいたとき認識者側の価値観やその後の結果次第で「賢」とも「愚」とも評されることでしょう。

 かりに対象が多くの人から「賢」あるいは「愚」と認識されるような事でも、それによって対象が十全「賢」あるいは「愚」なるものであるかというと必ずしもそうではありません。エリート営業マンは営業としては「賢」であったとしても事務力は「愚」であるというようなことです。

 大切なことは賢愚に関する他者からの評価ではなく、自分が他者と比較して理解する賢愚でもなく、ただひたすらに自分自身を正しく観ることができるかということです。自分のできることとできないことは何か、できることはどこまでできるのか。今の自分に至らない点があるということを正しく観極めることができた時、それはまさに賢者であるのです。

 しかし、残念なことに一度観極めることができればよいかというと、決してそうはいきません。なぜなら、一度観極めることができたとしても忙しさによってそれを忘れるからです。慢心することによって再び正しく観極められなくなるからです。考えが揺らぐとすぐに他者と比較してしまうからです。他者の評価を気にしないで居続けることが難しいからです。

 かく言う私も忘却、慢心、他者の評価などによって賢くあり続ける事、つまり自分が愚かであることを起点として諸事に当たることの難しさに苛まれています。

 さあ、改めて「愚者の自覚」という賢さを再確認し、その上で行動し続けることを心掛けて一カ月間過ごそうではありませんか。この心掛けの継続と行動が、これからの人生をさらに少しずつ豊かなものにしていくに違いありません。

 以上のような決意をこめて、写経の願文には

「愚者の自覚」

 と書いて心静かに内省し、念仏をお称えいたしましょう。

南無阿弥陀仏

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