住職より~ 月例供養会について

2024年5月9日
法事とは別に卒塔婆の供養や位牌の開眼閉眼、各種供養をしたいという時があると思います。そうした想いに応えるために、正光寺では毎月一回《月例供養会》をお勤めしています。

 《月例供養会》は合同供養になりますので、希望される方が一堂に会してお勤めをすることになります。一方で、参加せずに供養だけ希望される場合にも対応いたします。

 また、この供養会は必ずしもお檀家様だけに対応するものでもありません。広く一般の方の供養のご希望にもお応えしていきます。
《月例供養会》でおこなわれる供養をはじめとする各種供養は、供養する対象と向き合いながら内省し、これからの人生を穏やかで幸せに過ごしていくこと、最期は極楽浄土にお迎え頂けるようにお念仏をお称えすることを目的とした儀式です。ですから、供養の際には立ち会うことがとても大切になります。

 供養する対象は卒塔婆供養、位牌開眼供養、針供養、人形供養など、一様ではありません。しかし、すべての対象に通底するものがあります。それは、対象を大事にしていた人の心(魂)です。

 例えば人形。昔から人形には魂が宿ると言われています。本当に宿るかどうか、私は知りません。しかし、もし人形に魂が宿るのであれば、それは「人形の」魂ではなく、それを大切にしている人の心(魂)が宿るのだと思います。

 人形には、楽しい時もつらい時も人形と遊んだ子供の頃の心(魂)が宿っているのです。大人になって実家に置かれたままになっていた人形は、その人に当時のたくさんの思い出や感情を思い起こさせてくれます。人形を拠り所のひとつとして大人になった今、人形は役目を終えて供養されていきます。人形供養は、「人形」を供養しているのではありません。人形に宿った自分自身の心を供養しているのです。つまり、それは人形供養を通じて自身を内省し、これからの人生を穏やかで幸せにするための決意表明なのです。多くの人は、それを無意識のうちに感謝といった類の言葉で表現しながら決意表明をしています。

 このような大切な行為を私たちは無意識のうちに済ませてしまっては、あまりにもったいないのです。人形に宿った自分自身の心としっかりと向き合って、忘れていた大切な事を再確認するために内省しこれからの人生の糧としていく試みが、穏やかで豊かな未来を切り開く力となるのです。

 このような内省の繰り返しによって迎えた最期に、敬愛する先人たちがいる極楽浄土へお迎え頂けることの、なんと浪漫のあることでしょう。だからこそ、念仏を称えるのです。

 供養の場に立ち会うのが叶わない事情も多々あろうかと思いますが、可能な範囲で同席されることをお勧めいたします。
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住職より~ 月例供養会について

2024年5月9日
法事とは別に卒塔婆の供養や位牌の開眼閉眼、各種供養をしたいという時があると思います。そうした想いに応えるために、正光寺では毎月一回《月例供養会》をお勤めしています。

 《月例供養会》は合同供養になりますので、希望される方が一堂に会してお勤めをすることになります。一方で、参加せずに供養だけ希望される場合にも対応いたします。

 また、この供養会は必ずしもお檀家様だけに対応するものでもありません。広く一般の方の供養のご希望にもお応えしていきます。
《月例供養会》でおこなわれる供養をはじめとする各種供養は、供養する対象と向き合いながら内省し、これからの人生を穏やかで幸せに過ごしていくこと、最期は極楽浄土にお迎え頂けるようにお念仏をお称えすることを目的とした儀式です。ですから、供養の際には立ち会うことがとても大切になります。

 供養する対象は卒塔婆供養、位牌開眼供養、針供養、人形供養など、一様ではありません。しかし、すべての対象に通底するものがあります。それは、対象を大事にしていた人の心(魂)です。

 例えば人形。昔から人形には魂が宿ると言われています。本当に宿るかどうか、私は知りません。しかし、もし人形に魂が宿るのであれば、それは「人形の」魂ではなく、それを大切にしている人の心(魂)が宿るのだと思います。

 人形には、楽しい時もつらい時も人形と遊んだ子供の頃の心(魂)が宿っているのです。大人になって実家に置かれたままになっていた人形は、その人に当時のたくさんの思い出や感情を思い起こさせてくれます。人形を拠り所のひとつとして大人になった今、人形は役目を終えて供養されていきます。人形供養は、「人形」を供養しているのではありません。人形に宿った自分自身の心を供養しているのです。つまり、それは人形供養を通じて自身を内省し、これからの人生を穏やかで幸せにするための決意表明なのです。多くの人は、それを無意識のうちに感謝といった類の言葉で表現しながら決意表明をしています。

 このような大切な行為を私たちは無意識のうちに済ませてしまっては、あまりにもったいないのです。人形に宿った自分自身の心としっかりと向き合って、忘れていた大切な事を再確認するために内省しこれからの人生の糧としていく試みが、穏やかで豊かな未来を切り開く力となるのです。

 このような内省の繰り返しによって迎えた最期に、敬愛する先人たちがいる極楽浄土へお迎え頂けることの、なんと浪漫のあることでしょう。だからこそ、念仏を称えるのです。

 供養の場に立ち会うのが叶わない事情も多々あろうかと思いますが、可能な範囲で同席されることをお勧めいたします。